ブルース・リーと同じ運命を拒否したジャッキー・チェン!それでも永遠に消し去れないブルースの大きな影!

1980年代を中心にアジアを席巻したジャッキー・チェン(成龍)。この人ほど、この40年間で評価が大きく変わった有名人もそう多くないだろう。

当時は、香港という特殊な立場について、多くの日本人がそれほど正確に認識できていなかった時代。日本だけを見ても、当時の彼の人気の凄まじさは異常とも呼べるもので、アクションが好きな若い世代の男性だけでなく、とりわけ若い女性のファンをも多く巻き込んだことが大きな要因とされている。

また、日本人とあまり変わらない彼の中性的な顔つきが親しみやすかったことと、香港のアクション映画におけるブルース・リーの後継者っぽい話題性もあって、各メディアがセンセーショナルに扱っていたのを鮮明に思い出す。

しかし、かつて香港スターの代名詞であった彼も、老年を迎えた今では往年の輝きもほとんど失い、香港人にも見放された存在になってしまった。この40年で、この男はどう変わったのだろうか?

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ジャッキー・チェンという男

日本でのジャッキー・チェンの人気がピークだったのが1983年。人気そのものは次の1984年も続くのだが、実は俳優の武田鉄矢氏はこの頃、ジャッキー・チェン関連書籍(おそらく、ジャッキー・チェン大百科だったか?)で紙面インタビューを受けている。武田氏はそのインタビューの中で、次のような趣旨の内容を語っていた。

“ジャッキーさんには、西洋が生んだ銃という愚かなものに抵抗できる代弁者になって欲しい。”

当時、武田氏は主演映画「刑事物語」シリーズを抱え、劇中で北派蟷螂拳を駆使する肉体派刑事を演じており、この発言は、その先駆たるジャッキー・チェンへのリスペクトも含めてなされた武田氏の本音だと推測できる。

実際、武田氏はインタビューの中で、ジャッキー・チェンの「笑拳」で繰り出す危険な演技を神業と称えながら、「笑拳」のアクションシーンの中に、南派蟷螂拳が組み込まれていることを熱く語っており、自身の映画で繰り出す蟷螂拳との流派の違いを特に取り上げて説明していたほど。

武田氏は、1984年公開の「刑事物語3 潮騒の詩」への出演をジャッキー・チェンに打診していたが、提示されたギャラがあまりにも高かったので最終的に共演が実現しなかったのは有名な話だ。

最も皮肉だったのは、次の1985年にジャッキー・チェンが銃を使うポリス・ストーリー/香港国際警察」が公開され、武田氏が語っていた思いが一気に崩れてしまったこと。当方は、それ以降、武田氏によるジャッキー・チェンに関する発言を聞いたことがない。

ブルース・リーと同じ運命を拒否

ジャッキー・チェンが愛憎入り混じった「恩師」とも呼べるロー・ウェイ(羅維)監督を見限り、かのブルース・リーを受け入れた敏腕映画人、レイモンド・チョウ(鄒文懐)氏率いるゴールデン・ハーベストに移籍したのは1980年頃のこと。

ブルース・リーの二番煎じとなることを恐れたジャッキー・チェンは、その後「ヤングマスター/師弟出馬」「ドラゴンロード」を撮り終えると、古典的な武術ヒーロー的作品に出演しなくなる。

その間、「バトルクリーク・ブロー」や「キャノンボール」などで、一時的なハリウッド進出はあったにせよ、結果的に厳しい現実を叩きつけられたジャッキー・チェンが「プロジェクトA」を撮影したのは、まさにブルース・リーを完全に振り切るためであった。

そんなジャッキー・チェンの大きな理想を載せた「プロジェクトA」は、さまざまな事情で当初の予定よりも尺を短くせざるを得ない不運に見舞われたものの、結果的に香港はもちろん、アジア各国でも成功を収め、彼は名実ともにアジアのスターに登りつめることになる。

1990年代半ばになると、再びハリウッドに進出し、香港映画史上初の全米1位を記録する映画「レッド・ブロンクス」を製作するなど、国際的俳優としてのキャリアを積んでいった。

消し去れないブルース・リーの大きな影

ジャッキー・チェンは、若いころからブルース・リーと同じような人生を歩むことを拒否してきたものの、一方でブルースのようなレジェンドになりたいという野心は常に抱き続けていた。

ところが、彼の思いとは裏腹に、ブルース・リーからの大きな影から本格的に脱却し始めようとした1984年以降、彼の地元香港での人気は次第に落ち込んでいく。

1980年代までに、香港スターとして明らかに誰もが羨む安定した人気を地元香港で獲得はしたものの、それに見合う勲章を得られていないことに、いよいよ不満を募らせ始める。それが、香港映画アカデミー賞とも呼ばれる金像獎である。

ブルース・リーの生前に、この賞は存在すらしておらず、いわばブルースには獲得しえない賞だ。

そのため、ジャッキー・チェンはこの賞、特に、最優秀主演男優賞の獲得に凄まじい執着を見せていた。しかし、理由はそれだけではない。

最優秀主演男優賞は、キャリアでは格下とも呼べるトニー・レオン(梁朝偉)アンディ・ラウ(劉德華)らが複数回獲得しているのに対し、彼らが駆け出しだった頃にすでにスターに登りつめていたジャッキー・チェン自身が、2022年時点で一度も獲得できていないからだ。

極めつけは、ジャッキー・チェンにとってアクション映画では弟子とも呼べる台湾出身のタイポ―(太保)が最優秀主演男優賞を獲得するまでになったことで、彼自身が地元香港には評価されていないことを改めて強く認識した感がある。

最後にたどり着いた中国というサポーター

1990年代には、ジャッキー・チェンは映画よりもスキャンダルで有名な存在としてすでに多くの香港人に認識されていた。

さらには、2000年代になると、地元香港よりも中国に重きを置くようになり、中国寄りの発言ことあるごとに繰り返している。

中国寄りの背景はいろんな事情があるとされるが、ある意味、自分を認めてくれなった香港に対する「仕返し」である可能性も香港人からは認識されており、同時に中国というサポーターをジャッキー・チェンは絶対に欠かすことができなくなったと言われる。

香港映画アカデミー賞が中国の大きな影響を完全に受けるようになった今、レジェンドになり損ねたジャッキー・チェンでも近い将来、彼が望んでいる最優秀主演男優賞を獲得できるのかもしれない。

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